大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

福岡地方裁判所久留米支部 昭和31年(わ)99号 判決

被告人 砥上泉

主文

被告人を罰金三千円に処する。

右罰金を完納し得ない場合は、金二百円を一日に換算した期間被告人を労役場に留置する。

押収してある短刀一本(証第二十号)及び匕首一本(証第二十一号)はこれを没収する。

殺人の点は無罪。

理由

罪となるべき事実

被告人は法定の除外事由がないのに、昭和三十一年三月十四日、福岡県山門郡大和町大字鷹尾百四十一番地の自宅において、短刀一本(証第二十号)、及び匕首一本(証第二十一号)を不法に所持していたものである。

(証拠の標目)(略)

(法令の適用)(略)

一部無罪の判断

本件公訴事実中殺人の点は「被告人は昭和二十九年六月頃より大牟田市橋口町料亭古竹荘の仲居をしていた綿谷こと榊原敏子を妾として同市小浜町八十六番地に一戸を与え囲つていたところ、昭和三十一年二月十五日頃小浜町に同女を訪ねた際、同女の態度に不審を懐きたることあり、同月二十七日午後八時頃同女を訪ねた際、偶同女の情夫の同市不知火町二丁目一番地日本電建株式会社大牟田営業所外交員蔵座逸夫(二十三年)が来ているのを見掛け同女に情夫があるのを知り、多情の敏子に対し嫉妬の念を禁じ得なかつたが、同年三月一日午後七時五十七分同市大正町二丁目二十五番地大天地映画劇場前バス停留場よりバスに乗り、午後八時同市松原町松原中学校前バス停留場でバスより降車し、敏子方に行く途中、かねて被告人と手を切り、前記情夫蔵座逸夫と夫婦になろうと決心していた敏子が同情夫と前記会社前での密会の時間が迫つていたので、急ぎ松原中学校前バス停留場附近に差掛つた際、被告人が同女の姿を見付け「何処に行くか、家に戻ろう」と云つたが、「どうしても逢わねばならね人がある、私が行くと云つているから私を行かしてもよいではないですか」と云つて被告人の要求を強く撥ねつけ情夫のもとえ行こうとしたので憤慨し、午後八時五分頃、同停留場附近の同市本町六丁目四十八番地の二熊谷医院附近道路上に於て、所携の小刀刄渡十一糎で、殺意をもつて敏子(三十年)の頸部、胸部、両腕等を数十回突刺し、二十七個の創傷を与え、心臓部刺創により即死させ殺害の目的を遂げたものである。」

と謂うにある。

そこで証拠によつてこれを審究すると、(この判決で月、日のみを示すのは昭和三十一年のそれを指す)右日時、場所で被害者綿谷敏子が頸部、胸部、両腕等に二十八個の創傷を受け、そのうち左側胸部の刺創による心臓損傷のため殺害された事実は医師原久憲作の死体検案書、医師下村博之作成の七月二十三日附嘱託鑑定書、司法警察員作成の実況見分書に照らし明らかである。従つて、右殺人すなわち敏子の死亡が果して被告人の犯行によるものであるか否かの点につき以下順次検討する。

一、本件の犯行動機について

先ず検察官主張の動機であるが、第二回公判調書中証人蔵座逸夫の供述記載、第一回、第十九回、及び第二十回公判調書中被告人の供述記載、被告人の司法警察員に対する三月六日附供述調書によれば、被告人は昭和二十九年六月頃より料亭古竹荘の仲居をしていた綿谷敏子(三十年)を妾として大牟田市小浜町八十六番地砂川泰吉方に囲い、月に金一万円位の生活費を与え、月二回位通つていたが、敏子は二月頃より、かつて同仁堂薬局に勤めていた頃の同僚である日本電建株式会社大牟田営業所外務員蔵座逸夫(二十三年)と情交関係を結ぶに至つた結果、ついには、被告人とも別れ、子供二人を連れて年下の同人と結婚しようとまで真剣に考える程の情熱に燃えていた。そこで二月十五日頃被告人が敏子を訪ねた際同女の態度がおかしく不審を抱いたことがあるが、同月二十七日午後八時頃同女を訪ねた際、偶々同女の情夫である前記蔵座が来ていたので被告人は不快に思い、敏子方にあがらずに敏子が後を追い、呼び戻しにきたのにも拘わらず振切つて帰つてしまつたことが認められる。従つて前記敏子が殺害された当時敏子と被告人との間に検察官主張の直接の動機ではないが、一応その遠因として考えられる事情は存在したものということができる。

二、被告人の現場存在

そこで進んで検察官主張の被告人の現場存在に関して判断する。検察官は冒頭陳述において、被告人は三月一日、大牟田市大正町大天地映画館隣の津山理髪店でひげを剃り、映画館前バス停留所より午後七時五十七分発バスに乗つて八時松原中学校前停留所に到着したが、同停留所の十字路に差しかかつた際敏子の姿を見付け急ぎ降車した。敏子と押問答の末八時五分頃殺害して八時十分頃敏子の家に行つたと述べているが、被告人はこの点に関し、当公判廷では、敏子が殺害された三月一日の行動として、午後七時十五分頃映画館を出てパチンコをしてから大牟田市大正町の理髪館に行き、鬚剃りをしている中同町大天地映画劇場前バス停留所を午後七時五十七分発四ツ山行バスが出た。それで鬚剃りが済んで、八時過ぎ頃蓬莱閣食堂に入り食事をして、八時二十五分頃同所を出て、同停留所八時三十分発四ツ山行バスに乗り、松原中学校前で下車し、敏子方に行き、八時五十分頃風呂に行き、九時十分か十五分頃風呂から帰つた旨供述し、敏子が殺害された同日午後八時五分頃は現場に居なかつた旨主張している。ところが第二回公判調書中証人宮川志津子、同砂川泰吉、第三回公判調書中証人松本耐子の各供述記載、裁判所の証人原田華子、同古賀正、同野田千足、同小宮すみ子、同葛城堅治、同三国スズヱ、同砂川サツキに対する各尋問調書によると、被告人は三月一日午後七時半頃、大正町大天地理髪館に鬚剃りに行き、それが七時四十五分少し過ぎ頃済んだので、前記停留所で午後七時五十七分発四ツ山行バスに乗り、午後八時頃松原中学校前停留所で下車し、車掌と車体の間を急ぎ足で通つて後方(バスの進行方向に対して)に行つたこと、犯行時刻である午後八時五分頃から十分頃迄の間犯行現場である同市本町六丁目四十八番地の二熊谷医院附近の道路上に被告人らしき者が立つており、傍には人が倒れていたこと、そして被告人はその後午後八時十分から十五分頃敏子方に行き、八時二十分頃蓬莱閣に行つたことが一応認められる。而してそれは、検察官の冒頭陳述と大体符合し、しかも被告人の傍に倒れていた人は前記冒頭に認定した敏子の死亡の日時、場所に照らし、正しく敏子の死体であつたことが明らかであるから、右の事実によると一応被告人の犯行ではないかと推定されるようである。しかし右証拠を詳細に検討してみると、各証言中には以下述べる様な種々の点において疑が見出されるので、これをとつて直ちに右認定を真実に合致するものと結論することはできない。

(イ)  まず第三回公判調書中証人松本耐子の供述記載について

松本耐子は第三回公判において「被告人が来たのはラジオの浪花演芸会のやつていた時で午後七時半一寸過ぎでした、鬚を剃り所要時間は約二十分位、洗髪をせず、済んだのは七時四十五分を一寸過ぎた頃であつた。」と述べている。これは前記被告人の鬚剃り中午後七時五十七分のバスが発車してしまつたという弁解とは時間的には大差はないが、同女の供述によるときは被告人は午後七時五十七分のバスに充分間に合つたことになりそのバスに乗れれば本件犯行があつた午後八時五分頃は本件犯行現場に居る事も可能となるので、結論において大きく違つてくるのである。そこで同女の供述の信憑力に関して考えると、殺人被疑事件捜査報告によると、中山、横馬場両刑事が事件の発生した数時間後に被告人を同道して松尾某女に被告人を見せ鬚剃りをしたか否か、その時刻につき取調べており、それによると、松尾某女は被告人の鬚を剃つた事を認め、その時刻を午後七時四十分頃から八時一寸過ぎ頃まで約二十分間と述べておる。ところが第二十回公判調書中、中山、横馬場両刑事の供述記載によると、松尾某女とは松本耐子のことであるが、取調べの際「同女は寝ぼけていた」とか「自分等が被告人の供述を基にして七時四十分から八時迄かかつたか否かと尋ねたからそうなつた。」とか「正式の報告書として裁判所にまで出す予定の書面でないから、大体の事を確認したのみで勿論細かく正確に質問応答したのではない。正確なことは後日正式に調べてから調書が作られる筈であつた。」とかを理由にして右の報告書記載は信憑力が無いことを強調する様に見えた。

勿論同女は寝ぼけていたかもしれぬし、正式の報告書ではないから乱雑に書かれたであろうことは首肯される。しかし両刑事のその場合の使命は被告人のアリバイの成否を確認に行つたのであるから、時刻の点の調査をよい加減に簡単安易に片付けたとも思えない。又松本耐子も鬚剃り後数時間して刑事が被告人を連れて来て尋ねられ、それに対して答えた時間であるから、最も生々しい新鮮な記憶に基づいて述べたものということができる。通常多くの日時を経過した後に事件の数時間後の記憶以上により正確な時刻の記憶は換起され難いものと考えられる点に鑑みると前記第三回公判調書中同女の前掲供述記載は多分に疑を容れる余地があつてその信憑力が乏しいと考える。

(ロ)  第二回公判調書中証人宮川志津子の供述記載について

同女は被告人が蓬莱閣に来た時刻について「三月一日夜砥上が来て焼飯を食べた。その時刻については同夜二時半頃大牟田の刑事さんが砥上が連れて来て、砥上が来店した時刻を尋ねられたので、砥上が来たのは八時から八時半の間ですと答えました。」「砥上が出て行くのと入れ違いに来つけの人が四人連れで来店した。その四人連れの人が来たのは午後八時四十分から九時までの間でありました。その時刻が判つているのはその時までラジオをかけて居たのですが、歌謡曲が午後九時からあるので四人連れのお客さんがラジオを大きくしてくれと云うので大きくした記憶があります。」「砥上は八時二十分過ぎ頃来て八時四十分頃帰つたと思いますが、正確には判りません。」「四人連れのためラジオを大きくしたのは九時十分頃でした。砥上が帰つたのはその三十分位前でした。」と述べ、少し内容が明確ではないが結局「砥上が来店したのは八時二十分頃来て八時四十分頃帰つたと思うが正確には判らない。」と云うことに帰着するようである。

これは前記の如く、被告人の理髪館で七時五十七分のバスに乗り遅れ、それから蓬莱閣に行き、焼飯を食べて八時二十五分頃そこを出て、八時三十分のバスに乗つたという弁解とはかなりの距りがあつて、被告人の弁解どおりとすれば犯行時刻である八時五分頃には正に被告人は蓬莱閣に居たことになり、アリバイが成立することになるのに同女の供述によると被告人は犯行後蓬莱閣に行つたことになり、結論において大きく違つてくる。この同女の供述に符合するものとして第四回公判調書中証人石橋金吾の供述記載、第六回公判調書中証人村山和子の供述記載並びに村山和子の検察官事務取扱副検事に対する供述調書がある。

これによると石橋金吾、村山和子等四人は三月一日夜九時すこし前に蓬莱閣に着いたことになり、村山和子は蓬莱閣に入るとすぐ入口正面衝立の裏側のテーブルに被告人がすわつているのを一寸みた。そして席をとつて再び衝立の方を見たときは被告人は既に居なかつたことになる。そこで宮川志津子のいう四人連れのお客とは村山和子等四人を指すものとみられ、宮川志津子の供述と大体において一致する。そこでこれらの供述の信憑力について考える。

先ず宮川志津子の供述であるが、これについては前記松本耐子の場合と同じ事がいえる。殺人被疑事件捜査報告によると、中山、横馬場両刑事が事件発生後数時間して被告人を同道して蓬莱閣に来て、来店の有無、その時刻を取調べており、それによると、三月一日午後八時頃ラジオが「歌の花ごよみ」のやつていた頃、砥上が来て焼飯を注文したので出したところ半分位食べて約三十分位して帰宅したので一応砥上のアリバイが成立すると記載してある。ところが第二十回公判調書中中山、横馬場両刑事の供述記載によると、右捜査報告にある質問応答の相手は年齢二十七、八年位の宮川という女と云う事であるから宮川志津子の前記供述記載と照合して同女が質問応答の相手であつたという事が明らかである。

ところで右両刑事の供述によると、前記捜査報告は正式の報告書でないから正確な調査ではなかつた如く述べているが、両刑事の使命は被告人のアリバイの成否の確認であり、被告人が八時から八時三十分頃まで蓬莱閣に居たという事は、被告人のアリバイの成立であるから時刻の点をいい加減に片付けたとも思えない。なお第二回公判調書中宮川志津子の供述記載にしても正確には判らないと述べており、月日の経過した公判期日において当夜の記憶よりもより正確な記憶は通常喚起できにくいと思われる点からみても、事件発生当夜記憶の新鮮な中に両刑事に対して被告人の在店時刻は八時から八時三十分と述べておるのであるから、むしろ、この供述の方が正確ではなかろうかとも思われる。

従つてこの点に関する宮川志津子の供述記載は信憑力に乏しいと云わねばならない。

次ぎに第四回公判調書中証人石橋金吾の供述記載及び第六回公判調書中証人村山和子の供述記載であるが、これは前記の如く九時少し前蓬莱閣に行つたとき衝立の後に男がいたという事であるが、供述が瞹昧で、それが被告人であつたか否かも不明である。村山和子の検察官事務取扱副検事に対する供述調書は、副検事が取調べの際、被告人を同女に見せたのに対し同女は蓬莱閣の衝立の後の席にいた男は被告人である旨述べている。

ところで同女が最初に警察官の取調をうけたのは、前記第六回公判調書中同女の供述記載によれば三月七日である。それ迄蓬莱閣で一寸見ただけの男の事をその年齢、服装、職業等に至る迄、可成り詳細に記憶しているだろうか疑問である。普通はそれだけ明確に記憶しているためには何か特別の理由がなければならない。その様な理由も見出せないので同女の副検事に対する供述調書は信憑力に乏しいと云わねばならない。

(ハ)  裁判所の証人原田華子、同古賀正に対する各尋問調書について

本件犯行当日である三月一日大牟田市内米山、四ツ山間、四ツ山、西駅間の西鉄バスの車掌である原田華子は「映画館前で乗込んだ客は九名乃至十一名、松原中学前で降りた客は二人、その二人のうち一人は男、一人は女、その男は映画館前で乗つた客である。その男は降りてから私と車体の間を通つてバスの進行と反対の方向に行つた。その年配は四十年位。鬚は良くそつてあつた。体格は普通。その男の服装は半オーバを着ており、その色は茶色が少し這入つた白いすぎあや織。」と述べ、被告人を示され「三月経つてはつきりした記憶はありませんが、あの時降りた客はこの方だと思う。シヨルダーバツクを持つていた。」と証言をし、運転手である古賀正は「松原中学校で降りた客は二人か三人であつた。男も居た。それは中年の男。洋服を着て居た。その男は車体と車掌の間を通つて後の方に行つた。」と詳細に述べている。成程被告人の当夜の服装は第二十回公判調書中被告人の供述記載及び押収してあるシヨルダーバツク(証第十三号)男物革手袋(証第十四号)鳥打帽子(証第十五号)、国防色ズボン(証第十七号)縞半オーバー(証第二十三号)の各存在によれば、被告人は国防色の占領軍の改造ズボンに茶色の上着、白縞杉綾織黒(又は茶)半オーバを着て、鳥打帽子をかぶり、シヨルダーバツクを肩にかけ革靴をはいていたものであり、服装等非常によく似ている。しかし果してその供述に信憑力があるであろうか。

同人等が最初に警察の取調を受けたのは三月六日であると述べている。その間三月一日より六日迄毎日バスに乗つて同じ路線を何回となく往復し乗降客の相手をしているのである。通常我々の記憶は毎日繰り迄されている同じ事柄に対しては記憶が薄いのであつて、余程特別な事でもない限り、一日、二日と経てば記憶を失うものである。

同人等が三月六日迄何ら警察官の質問を受けることなく過ごし乍ら、三月一日夜の乗降客の容貌、体格、年齢、着衣、携帯品乗込んだ場所迄詳細明確に記憶しているには何か特別の理由が必要である。

尤も原田華子は「その日は女の客が多かつたのでわりにはつきり記憶しています。」とは述べているが、女の客が多いといつても比較的多いのであろうし、又女の客の多い日は他にもあつたことであろうからこれを以て特別の理由と云うことはできない。従つて亦同人等の供述は信憑力に乏しいものと云わねばならない。

(二) 裁判所のなした野田千足、同小宮すみ子、同葛城堅治の各尋問調書について

これ等の証拠は何れも検察官から現場目撃証人として公判に提出されたものである。野田千足は現場を「同夜八時七、八分頃自転車で通つた。」「(現場より二十五米はなれた)道で(距離は六月二十一日附裁判所のなした検証調書による)中年の体格の大きい男一人ともう一人近くに男か女か判らなかつたが人が居るのを見た。」「中年の男の顔は記憶しないが半オーバを着てマフラーを首に巻いて居た、その色合は憶えないが、その人は魚籠の様なものを提げていたから潮干狩帰りの人かと思つた。」「翌朝新聞で本件の発生を知つたが、右の二人の事件とは思わなかつた。」と述べている。成程着衣、年齢、体格等似ているが、今日その様な服装の人は多いし、もう一人の人影も女か男さえ判つていないのでその中年の男と無関係の人かもわからない。従つてその中年の男が被告人であるとは断定できないのである。

小宮すみ子は「八時から八時五分と思われる頃、現場で一人か二人か黒い人影を見た。自分はアベツクと直感した。」と云うのみでこれはその黒い人影が被告人であるかないか決し兼ねる内容である。

又葛城堅治は風呂帰りに八時十分頃現場を通つた。電柱の前に一人の男が立つて居た。またその傍に人が寝ているのを見た。寝ていた人は黒い着物の下に白い足が見え、枕を北にして倒れて居た。立つていた男の顔は憶えないが、背丈は普通でやせても肥えても居なかつた。服装は上はジヤンバー、下は普通のズボン、頭には中折帽子でも鳥打帽子でもなく、よく夏に冠る帽子だろうと思つた。ジヤンバーと云うのは胴をしぼつたもの色は碁盤型に黒い縞があつた。胴をしぼつてあつたので半オーバではなかつた。年齢三十五、六年、服装、態度から請負か干拓関係の人と思つた。その人は東側を向いて立つていた。倒れて居る人が女か男か気付かなかつた。その服装も気付かない。私は酔うて倒れているかと思つた。立つて居た人は両手を腰に当てて居たので手には何も持物は無かつたと思う。肩に何か掛けて居たか否か気付かなかつた。自分は立つている人の様子に別に変だとは思わなかつた。その人のズボンは黒ではなく国防色であつた」と述べている。倒れていたのは被害者敏子の死体と認められ、立つていた男は年齢、服装職業等なるほど被告人に類似している点もあつて、一寸被告人ではなかろうかと思われるふしがないでもない。しかし帽子は中折でも鳥打でもなく夏に冠る帽子と云つているし、そして胴のしぼられたジヤンバーと述べ、検察官が半オーバではないかと追究しても「否、胴がしぼられていたからジヤンバーだ。」と確言している。

同人は被告人の半オーバを法廷で示され「これとは異る。色柄も異る。」と断言している。斯様に被告人との相違点もある。従つて死体のそばに立つていた男が被告人であつたとはその供述からは断定しえないばかりでなく、第一相手を斬殺した犯人が夜間とはいえ通行人に見られ乍ら別に変だと思われない程度にまで平然と死体の傍に立つているということ自体すでにおかしなことであり、通常人の近ずく気配を感知すると、犯人は直ちに逃げてその場から離れるのが自然だと考えられる点から見ても、その男が犯人であるとみるのは不合理でかえつて第二十一回公判調書中証人富松勇二の供述記載及び裁判所の証人富松勇二に対する尋問調書によれば、「午後八時二十二分頃現場を通つた際、女の人が倒れていたので警察に届出た。それが八時二十五分頃であつた。」「警察官の一人と一緒に現場に来て警察官より死体の番をたのまれたので七、八分位現場に立つていた、その間風呂帰りの夫婦連れが通つた。その時の私の服装はジヤンバーとズボンで登山帽をかぶつていた。手には何も持つていなかつた」と述べている。葛城堅治が男を見た時間は八時十分頃と云つておつて、富松勇二が死体の傍に立つていたときとは時間のずれがあるが、とかく、証人の時間に関する証言は、あいまいで、正確を期し難いことが多いので、葛城が見たのは或は富松であるかも知れない。

以上の点からして葛城の見た男が被告人であるとは断定しえない。

(ホ)  第二回公判調書中証人砂川泰吉の供述記載及び裁判所のなした証人三国スズエ、同砂川サツキに対する各尋問調書について

同人等の供述はいずれも被告人が敏子方に着いた時刻に関するものであるが、三国スズヱは「砥上が来たのは八時十分か十五分頃ではないかと思う。」と述べ、砂川サツキは「被告人が来たのは私の想像からすると八時十分から十五分頃であると思う。」また敏子が出て行つてから十五分か二十分して被告人が来たと思う。」と述べ、砂川泰吉は「被告人が来たのは道で敏子とお会いしたのではないかと思つた位で、敏子さんが出てから十分か十五分位してからではないかと思いますが、時計も止まつていたので判然とは判りません。」と述べている。被告人は八時三十分に大正町でバスに乗つたと弁解しているから、敏子方に着くのは八時三十五分過になる。ところが検察官の主張は被告人は八時五分頃敏子を殺害して、その足で敏子方に行つた事になるから時間的に前記三人の供述は一応符合する。そこで同人等の供述の信憑力につき考えると、この中三国スズヱの「八時半よりも前」と云う点が比較的一番しつかりした根拠を示してはいるものの、基準となる時計が正確か否かに不安があるし、又砂川夫婦の家は時計が止まつて居たので、敏子が出て行つてから後十分か十五分かそれとも二十分かの後に被告人が来たと云つているが、その根本の時間的標準があいまいである。

従つて同人等の供述も必ずしも確信を持てないのである。

以上検察官主張の被告人の現場存在に関する証拠を逐一彼此検討したが、これらの証拠は、いずれも、その内容に疑わしい点が多く未だ信用を措くに足るだけの証明力を有するものとは認められないので、これを以て被告人の有罪を決する資料として採用することは到底できない。

(三) 被告人の自白

ところで被告人は司法警察員及び検察官に対して犯行を自白しているのでこの自白調書の任意性及び信憑力に関して検討する。

(1)  先ず自白をなすに至つた動機として

第十九回公判調書中被告人の供述記載によれば、被告人は逮捕以来浦島橋の工事が気にかかり一日も早く釈放されたかつた。警察官からお前の云うのは嘘だ。本当なら反証を挙げよ。こちらには証人が何人もある、自白しなくとも平沢と同じで飼い殺しだ、それよりも自白して早く出る方がよいぞ、そうすれば歎願書も出してやる。花見も皆と一緒にされるようにしてやると云われ、殺人でも自供して直ぐ釈放され、出された者の前例を幾つも挙げて説明されたので、自分も出して貰えるなら自供して出た方が良いと思い心にもなく自供したと弁解している。なおこれに照応するものとして第十回公判調書中証人福永次助の供述記載がある。

それによると、同人は「被告人と大牟田警察で二、三日間同房した折砥上は全然人を殺したり、その他過ちを起していないと云つていた。」「同房中砥上が殺したことを自白した旨云つていた。」「自白した理由は多くの刑事から責められ、苦し紛れに無いことをあると云つた。後悔していると云つてました。」「砥上の取調は午前九時か十時頃から晩まで続いていました。私と同房中は毎日のようにそんな取調があつていました。」と述べている。ところで第七回及び第十七回公判調書中証人安永義則の各供述記載、第八回公判調書中証人松石泉の供述記載によれば、同人等は被告人を強制、誘導して自白をさせたものでないとして被告人の右弁解及び福永次助の供述内容をも否定している。ところが安永義則の右供述によれば、被告人が矢部川の橋の工事(浦島橋の工事と思われる)を気にして早く完成させたいという気持を持つており、早く出所したいと希望していた事を知つていた事が認められる。してみれば同人が故意に被告人を誘導して自白させたものでないとしても、被告人の方で同人の暗示なり示唆にかかつて自白をしたのではないかとの疑もある。

従つて被告人の自白が任意になされたものであるか否かについては一応の疑が存し、完全に任意性があるものというにはいささか躊躇せざるを得ない。

(2)  しかし更に進んで自白の内容について検討してみる。

(イ)  先ず兇器の点であるが

(a)  被告人の三月十六日附警察調書では「兇器の切出小刀は現場から敏子方に行く途中工事中の人夫小屋の附近で道路際に捨てた。」

となつているが、第八回公判調書中証人松石泉の供述記載によると一番最切は「中島川に捨てた」と供述した事になる。

(b)  三月十八日附警察調書では「松原寮裏の道路工事をしてある所を通る時刃物は捨てました。」

(c)  三月十九日附警察調書では「長さ十糎位の肉切庖丁の様なもので殺した。その庖丁は敏子方押入れの一番東側の壁と木箱の間のところに隠した。」

(d)  四月二日附警察調書では「兇器の切出小刀は敏子方押入れの木箱の中の一番下の方に隠しておきました」となつている。

しかしここで注意すべきは第七回公判調書中証人安永義則の供述記載及び前記松石泉の供述記載によれば、被告人が「敏子方押入の木箱の中の一番下の方に隠した。」と自供する前に証第十二号の切出小刀は既に警察官の手により敏子方押入の木箱の中の一番下から出て来た事実である。

従つて取調官が既に発見した小刀を突付けて被告人に認めさせたのではないかという疑である。ところで更に注目すべきは(c)の如く押入の壁と木箱の間のところに隠したと自供した三月十九日附警察調書と(d)の如く押入の木箱の下に隠したと自供した四月二日附警察調書との中間の時期である三月二十四日附検察官調書では

(e)「殺害に使つた小刀は敏子方に行く途中の失対人夫の道路工事の道傍にポンと捨てました。」と述べておつて、前後の警察調書とは全く矛盾しており、その後の四月一日附検察官調書でもその小刀の置き場については何等の供述がされていない。

それは後記のとおり検察官が証第十二号の切出小刀を本件兇器と考えなかつたためと解される。斯様に被告人の自白は取調官の代るごとにその供述内容が二転三転していることが認められる。

(ロ)  次に被告人の自白調書には左の如き矛盾がある。

蓬莱閣に関する部分であるが初め被告人の自白では蓬莱閣に行つた順序は犯行の前であり(三月十六日附、三月十八日附各警察調書)後には犯行の後になつている。即ち三月十九日附警察調書と四月二日附警察調書である。しかるにその中間にあたる三月二十四日附検察官調書では「歩いて行つたか否か、入浴の前か後か、敏子を殺す前か後かはつきり記憶しません」となつて居り、取調官の如何によつて供述内容が変化している。

(ハ)  更に犯行後蓬莱閣に行つたとしてもそれと入浴との関係が問題になる。

三月十九日附被告人の警察調書では敏子を殺害後、敏子方に行き、蓬莱閣に行つて、更に敏子方にもどり、風呂に行つた事になつている。そうすれば第十九回公判調書中証人綿谷のり子の「砥上の小父さんが八時半頃来ました。」「来てから風呂に行くと云つて丹前を着て出て行きました。」という供述記載と衝突する。ところが四月一日附検察官調書では、敏子を殺害後、敏子方に行き、ドテラを着て風呂に行き、帰つてきて再び洋服を着シヨルダーバツクを肩にかけて蓬莱閣に往復とも歩いて行つたとなつている。

これは如何にも不自然な行為であるとともに、第九回公判調書中証人里本みどりの供述記載によれば「九時のサイレンがなつてから私が洗濯物をゆすいでいたら砥上さんがタオルを持つて風呂から帰られました。」となつており、そうすれば被告人が風呂から帰つたのは九時過のことであるから、第二回公判調書中証人宮川志津子の被告人が蓬莱閣に居たのは八時二十分から八時四十分の間であるとの供述記載との間に矛盾を生ずる。

(ニ)  被告人の三月三十一日附警察調書では「午後七時五十七分発四ツ山行の市内バスに乗車しました。」「実は私が乗車したのは午後八時二十七分大正町発のバスであると申しましたのは時間的に犯行と関係がない様にするために嘘を申して居りました。」とあり、被告人はアリバイを作為して主張するため一バス遅れて午後八時二十七分のバスに乗車したと陳述した旨述べている。

若し被告人が意識的にかかるアリバイの主張を作為したとすれば、真に犯人でないならそのような意識的な主張をすることは不審なことであるから、裏からいえば、被告人が真犯人であるからこそそのような陳述をしたものと窺われないでもない。従つて本件においては被告人がかかるアリバイを主張すること自体敏子殺害の犯人であり、被告人の自白は真実に沿うものではないかとの疑を抱かせるが、前記の如く被告人の自白調書には矛盾があるので、右にのべたような推測では未だこれを以て被告人の自白の真実性を裏付ける証拠とはなりえない。

(ホ)  最後に第二十三回公判期日において再生した被告人の司法警察員に対する録音テープにつき述べる。それによると、被告人の供述態度は如何にも悔悟の涙にくれ、真実を自供しているかの如き観がある。

しかしその供述内容は大体において被告人の三月十六日附警察調書と同様である。従つて右警察調書につき前記の如き内容の矛盾がある以上これを以て直ちに真実の自白であると断定するわけにはいかない。

以上述べた如く被告人の司法警察員並びに検察官に対する自白調書はその内容において相互に矛盾し、又他の証拠との関係においても相互に矛盾衝突している。

従つてかかる自白調書はその信憑力に乏しく、もとより被告人を有罪とする資料に採用することは、躊躇せざるを得ない。

(四) 兇器について

本件殺人の犯行に供用した兇器につき、公判開始当初の立会検事であるとともに被告人の取調官でもあつた検察官は本件の冒頭陳述において「証第十二号の切出小刀は大工のよく使うものであるから、被告人が故意に泥土を塗つて血乗りを泥土で消したかのように見せかけて、敏子方の部屋の衣類箱の底に入れ、隣家の大工である砂川泰吉の犯行であるかの如く偽装した。」と述べ、証第十二号の切出小刀は本件犯行の兇器ではないとされている。

ところでこの証第十二号の切出小刀は三月七日頃警察官が敏子方押入れの木箱の中から発見して押収したことになつており、初め道路工事現場附近に捨てたと言つていた被告人が前記のとおり三月十九日その供述を変えてから((三)(2)(C))、四月二日附の警察調書では敏子を殺害したのは切出小刀であり、犯行後敏子方押入の木箱に隠した事になつているから警察官側では証第十二号こそ本件犯行の兇器という事になつていたものと思われる。しかし検察官は右証第十二号の切出小刀には血痕の附着なしとの後掲三月十五日附県の鑑識の結果に恐らく著眼されたためであろうが、被告人が右のとおり警察において犯行に用いた兇器は押入の木箱の中にかくしたという点を全く不問に付し、その三月二十四日附被告人調書では「敏子を殺すとき使つた小刀は敏子方に行く途中道傍にポンと捨てた」となつており、その後の四月一日附同検事の調書でもその部分は何等変更されていない。恐らく警察での兇器に関する供述を虚偽と考えられたのであろう。そして前記の如き冒頭陳述となつたものと推認される。ところが被告人は検察官の取調をうけた翌日すなわち四月二日また警察官に対して犯行に供用した兇器は押入の木箱の中に隠したと前記のとおり供述しておつて本件証第十二号の切出小刀について警察官側と検察官側との間に一定した意見が看取できないばかりでなく、又検察官側においても、同検察官の後をついで立会つた検察官は第十五回公判期日において本件犯行の兇器は証第十二号の切出小刀であると主張して前検察官の主張をくつがえし、更に交替して最後に立会つた検察官は論告で、初め本件犯行の兇器は証第十二号の切出小刀でないとし、後にやはり証第十二号が本件犯行の兇器であると訂正していることが訴訟の経過に徴して明らかである。

そこで本件犯行の兇器は証第十二号の切出小刀であるか、或いは他のものであるのかにつき証拠により審究する事とする。

先ず敏子の死体の解剖をなした医師下村博之の七月二十三日附嘱託鑑定書によれば「兇器としては長さ少くとも十一糎前後かそれ以上、巾二糎、然かも比較的細かいものではないかと推測される。」とあり、その理由として「兇器については左側胸部の(9)創、左上腕部の(10)、(11)創、着衣の厚さ等よりすると長さは少くとも十一糎前後はあり、幅約二糎内外棟副約〇・一五乃至〇・二糎の片刄性鋭器で、右拇指における(25)、(26)創の如き小さな穿通創を生ずる点より考えると、尖端は鋭利で、しかも可成り細くなつているのではないかと推測される。」としてある。そして第六回公判調書における同人の供述記載によると、「心臓に入つた深さが十糎乃至十糎七、着衣一糎位ですから十一糎以上の長さのあるもので、幅は二糎位で兇器の峰は彎曲があるか角味を帯びているかした切先が鋭利な刄物であつたという事がいえる。」と述べ証第十二号を始め証第二十号、二十一号(以上いずれも、被告人が自宅で不法に所持していたもの)、二十四号(隣家の砂川泰吉の提出したもの)の刄物を呈示されて、十二号、二十号、二十一号が本件兇器たる可能性を否定して「証第十二号の切出小刀は現状の錆びた状態では切味が悪く、本件のような切創は出来かねる。」「長さも十糎位しかないのでやゝ不足する。」また敏子の着ていたオーバを示され、その創を見て「この(証第十二号)現在の状態では無理ではないかと思いますが、この証第十二号が新品で切味が良く切先がつぶれていなければ出来る可能性があります。」と述べている。

しかるに同人の昭和三十二年三月二十日附嘱託鑑定書によると、敏子のオーバの切目は証第十二号の切出小刀によつて最も類似の切目が生ずるとし、第十一回公判調書中同人の供述記載によつても、「証第二号のオーバの切目からして刄物が鋭利でない点及び切目がくの字に曲つている点からして今度の鑑定(昭和三十二年三月二十日附嘱託鑑定書)の結論をえたのであります。」「証第十二号の切出小刀を測定しましたところ十糎四粍あり刄先二粍が曲つていますので曲つていないとすれば十糎六粍となります。」「オーバの厚さが七粍、ワンピースの厚さが二粍その下にシミーズがありますのでオーバの表からすると傷の深さは十一糎乃至十一糎七になりますが、皮膚は弾力性がありますので突く時の力の入れ具合で凹んできますのでその長さより短い刄物でも出来ます。」「死体や外套の傷や切目からすると、刄物の刄先は曲つていなかつたと思はれる。」「証第十二号が本件に使用した刄物とすれば刄先は犯行後曲つたことになる。」となり、明らかに七月二十三日附嘱託鑑定書及び第六回公判調書中同人の供述記載を変更している。そして変更の理由として同人は

(1)  前回は証第十二号の長さを正確に測らなかつた。

(2)  前回は実際にオーバを見ていなかつた。

と述べている。しかしオーバについては、第六回公判調書に此の証第二号のオーバを下村証人に示した旨記載されているし、又七月二十三日附嘱託鑑定書によるも「着衣に存する切目はオーバの前面に存するものだけでも凡そ四十数個を算し、何れも甚だ鋭利に形成されている。」「かゝる整鋭な切目を生ずるには極めて鋭利な刄器で、尖端も比較的鋭い刺器が作用したものであろうと考えられます。」と明記されている。従つていづれの鑑定が正しいか疑問であるが、昭和三十二年三月二十日附嘱託鑑定書及び第十一回公判調書中証人下村博之の供述記載のいずれも証第十二号の刄先が犯行当時曲つていない事を前提として本件兇器たりうるとしているのである。

そこで刄先が何時、如何なる原因で曲つたかについて考えると、前記第十一回公判調書中証人下村博之の供述記載によると「仮りに証第十二号で被害者を刺したとすればそれによつて刄先が曲つたと思われるか。」の問に対し「正確なことは云えませんが、本件の死体には骨にあたつた形跡のある傷はないので、証第十二号のように曲るということは考えられません。」と述べている。

ところが被告人は四月二日附警察調書で「そのナイフは良くきれるものでした。又錆も只今の様にしていませんでしたが、犯行の夜、私が土の中に数回突込みごしごしやつていた時刄先等もつぶれたものと思います。刄先の尖端も今見せて貰うと折れていますが、それも土盛りの中でそんなになつたのではなかろうかと思います」と述べている。そこで刄物を土盛の中に突きさす事によつて折れることがあるかにつき、前記下村博之の供述記載ではありうると述べている。それでは果して証第十二号には土盛に差込んだ形跡があるかゞ考えられねばならない。

三月十五日附福岡県警察本部刑事部鑑識課長作成の物品鑑識結果についてと題する書面及び裁判所のなした証人三国スズヱ、同砂川サツキの各尋問調書によれば、証第十二号には泥がついていた旨述べている。しかし果して泥であつたかその実体につき検査がなされたか否か不明である。

次に井上徳治の鑑定書によれば、証第十二号は地面又は土盛に差込んだ形跡が認められるとし、その理由として証第十二号の刀身には明らかに土様物が全般にうすく根元にてはかなりの量附着していると記載している。ところが同人の当公廷における供述によれば、「土様物の実体は調べていません。」土様物というのは土ではなかつたかの問に対し「調べていないので判りません。」証第十二号には地面又は地盛に差込んだ形跡があつたかの問に対し「差込んだと断定はしていません。」と述べている。これでは土盛りに差込んだかどうかは不明であると云はねばならない。従つて刄先が何時、如何なる原因によつて曲つたか不明に帰し、刄先が犯行当時曲つていなかつた事を前提として証第十二号を本件兇器とする前記下村博之の鑑定書及び供述記載は採用しえないことになる。

更に証第十二号が兇器であるとするには次の疑問がある。即ち血液が附着していないことである。

前記物品鑑識結果についてと題する書面(犯行後二週間内に鑑識がなされている)によれば、小刀の刀身に就いて式の通り血痕予備試験を行つたが、反応陽性を呈するものはなかつた、即ち血痕を認めませんでしたとなつており、前記井上徳治の鑑定書によれば、血痕ではなかろうかと疑われるものが附着しては居ますが、検査の結果明確に血痕である事を証明できませんでしたとあり、同人の当公廷における供述によつても血痕ではなかろうかと疑われるものは血液でないことは判りましたと述べている。尚同人は血が附着していても永い時間がたてば妨害物のため変化して血液の検出ができなくなつた例があると述べている。成程その様な事もあるだろう。又被害者の着衣によつて血液の附着が妨げられる事もあるだろう。しかしやはり血液が附着していないことは証第十二号をして本件犯行の兇器とする事を躊躇させるものがある。以上述べたところによつて証第十二号の切出小刀を本件犯行の兇器とするには証拠が不充分である。従つて本件については兇器が証拠上存在しないことになる。

(五) 被告人の着衣等について

押収してあるシヨルダーバツク、男物革手袋、鳥打帽子、国防色ズボン、縞半オーバは事件発生当夜の被告人の衣服及び携帯品である。

七月二十三日附下村博之作成の嘱託鑑定書によれば、被害者は全身二十八個の創傷を蒙り「本屍に於ては心臓内血液の潴溜殆んどなく、肺臓、肝臓、脾臓、腎臓等の血量も極めて少く明らかな乏血の像を呈しますが、その主因をなすものは心臓刺創に基く失血である。」と記載しているところからみても相当の血液が流出した事が認められる。この血液は敏子の着衣によつて飛散しなかつたとも云えるが、右鑑定書記載の如く頤部並びに頸部の創傷の如く露出部分の傷もある。従つて犯人に一滴の返り血も附着していないとは通常考え難いところである。しかるに三月二十七日附福岡県警察本部刑事部鑑識課長作成の物品鑑識結果についてと題する書面によると、当夜被告人の着用していた襟巻、ズボン、シヨルダーバツク、鳥打帽子、革手袋、半オーバには血痕が附着していなかつたと記載してある。

かゝる点からしても本件犯行を被告人の所為であると断定しえないものがある。

(六) 以上本件証拠につき逐一検討してみた。これによると或は被告人が本件犯行すなはち敏子を殺害したものではなかろうかと疑われるふしもないではないが、しかしそれはあくまでも疑の程度に止まり、被告人が確かに敏子殺害の犯人であると断定出来る確信の程度に至る迄の証明力がない。従つて本件犯行が被告人の所為であると認定することはできない。

他にまたこれを認めるに足るべき証拠もない。

そこで結局本件殺人の公訴事実は犯罪の証明がないことに帰するので刑事訴訟法第三百三十六条により被告人に対して無罪の言渡をすることとする。

よつて主文の通り判決する。

(裁判官 大曲壮次郎 長利正己 徳本サダ子)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例